“ひそかに夜をかたちづくる物たちの気配のなかに、ふいにイメージとしてうかびあがり、われわれの魂にすみつくものかもしれない。実像がもはや消えうせたときには虚像を重ねるソフィスティケーションが、直接のEROSの衝動にささえられたものかもしれない。個人的にとじられたかかわりが、人間にのこされた自然を、たとえ陰惨のベールをとおしてでもよびさましうるのかもしれない。が、同時に、世界はまさにEROSの荒野である。アンニュイなどという馬鹿々々しいものはわれわれには関係がない。われわれが求めているのは 文明の抑圧のさなかに追いつめられた肉と魂の論理なのである。解放はまだこないのだ。”(『provoke 第2号』より)
“エロティックな写真は、セックスを中心的な対象としない(これがまさにエロティックな写真の条件である。)セックスを示さずにいることも大いにありうる。エロティックな写真は観客をフレームの外へ連れ出す。だからこそ、私はそうした写真を活気づけ、そうした写真が私を活気づける。プンクトゥムは、そのとき、微妙な一種の場外となり、映像は、それが示しているものの彼方に、欲望を向かわせるかのようになる。といっても、ただ単にその裸体の《他の部分》に向かわせるということではない。ただ単に、ある行為をおこなう幻想に向かわせるということではない。魂と肉体を兼ねそなえた一個の存在の絶対的な素晴らしさに向かわせるのである。”(ロラン・バルト『明るい部屋 写真についての覚書』より)
寮に帰ってきたのでロラン・バルト『明るい部屋』を読む。『provoke 第2号』の強烈なEROSにまつわる一文はロラン・バルトのエロティックな写真についての記述と重なり合う。直接的な性について以外の対象にセクシーだとかエロいだとかという語句は日常的に見かけるが、これらの文章はは物質的なフェティッシュだけでなくその先にあるものを見据えているようだ。
エロティックな写真は難しい……