阿津川 辰海『黄土館の殺人』感想

 阿津川 辰海『黄土館の殺人』を読んだ。館四重奏シリーズの3冊目となる本作だが、読んでいて特に解決編は「うーん……」と唸ってしまった。僕はあんまりこのシリーズと合わないと思っているのだけど、このシリーズで描かれる「名探偵」と「助手」といった本格ミステリを構成する属性について自己言及的なところに興味を持って読んでいる。それは、今までの本格ミステリにない「名探偵」と「助手」の姿を模索しているように思えたからだ。それは、本作でも事件を「推理する」ことと「解決する」ことを分けて考えたり、「名探偵」の業や彼らの内面がピックアップされていたりと、シリーズを通してずっと描かれてきてた。そこには彼らを若さやモラトリアムと単純に称することのできない切実さがあったように思う。ただ本作は「名探偵」を目指していた葛城の切実さや苦悩が過去二作より薄まっているように思えた。本作は多分次で最終巻を迎えるための布石、飛鳥井の復活(引退)や田所の探偵としての萌芽を描いているのだろう。そう考えても納得できない点がいくつかある。

 一つが、葛城がいると田所が名探偵になれないように、葛城もまた飛鳥井がいると本当の意味での名探偵になれないのではないか?という疑問だ。僕が本作の中で好きだった部分は葛城と田所が分断されて、田所が葛城の代わりに事件に立ち向かう場面だ。本編でもほとんどのページが割かれており、不器用ながらも田所が事件の核心まであと少しまでのところに迫っていく。今まで助手だった田所が名探偵不在の中でもがいている姿はかなり好きだ。僕はここで田所が「名探偵」の側面に触れ、事件を「推理する」ことではなく「解決する」ことの難しさを身を以て体感するのだろうと思いながら読んでいた。しかし、黄土館から救出された以降は、田所の推理は葛城に60%程度だと評され、葛城と飛鳥井という二人の「名探偵」を前にとんちんかんな「助手」に成り下がってしまった。

 飛鳥井の復活劇についても、少々演劇化されすぎているように思う。確かに葛城自身は黄土館で起こった事件の当事者ではない。それでも名探偵として事件の「解決」を模索していた彼がやったのは、飛鳥井を引退させるためのアシストだった。飛鳥井の復活によって真犯人が暴かれた時(もちろん葛城は全てを既に推理し終えている)、事件を解決する=真犯人を救うことが出来たのは葛城ではなく飛鳥井だった。全てを完璧に推理することは不可能かもしれない。しかし、事件を「推理する」のではなく事件を「解決する」ことを目指した彼がやったことは、動機はわからないといったものの、全てを知ったかのようになって、かつての先輩を華やかに引退させる演出をしただけだ。事件を「解決する」ことを目指した名探偵の、葛城の切実さはそこにはない。しまいには、葛城の心の声を自身ではなく飛鳥井に代弁させてしまう。

 本当にそれで良かったのだろうか?名探偵の宿命も驕りも、それらを全て自覚したうえで向き合い、傷つき、背負っていくのが葛城が目指した「名探偵」であり、それを模索するのが本シリーズだったのではないのだろうか?僕にはどうしてもあのシーンが、葛城が飛鳥井に甘えて許しを得ただけにしか見えない。それこそただのモラトリアムではないだろうか。

 田所が葛城に「名探偵」を投影しているように、葛城もまた自身が目指している「名探偵」の姿を飛鳥井に投影している。そこには、助手である田所が名探偵の葛城がいることで、自身が名探偵になれないのと同じように、葛城もまた飛鳥井がいることで名探偵になることが出来ないのではないだろうか。

 と書いたものの彼らの物語はまだ途中であり、次の<風>にあたる作品で彼らの物語がどのような結末を迎えるのかとても楽しみだ。

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