SNSで呟くようになったために、あらためて日記に書くようなことがあまりない。今日は雨で一日中調子が悪かった。頭痛に悩まされ鼻炎に悩まされ、お昼ご飯のカップラーメンには水を注いでしまう。それでも少しずつ本を読み進めて今日をやりすごしていく。読書中にも仕事のことや同僚のことが頭をよぎる。手足がしびれてくるのを感じていつも就寝前に飲んでいる薬をお昼に一錠飲む。午後は気分を変えようと近所のカフェに行く。ダメ夫トークで盛り上がっている主婦の会話が嫌でも聞こえてきて中々読書に集中出来ない。そういえば、映画『花束みたいな恋をした』では結婚について描かれていたけど、出産については描かれていなかったことに気が付いた。出産を迎えれば麦くんと絹ちゃんの立場は逆転するにちがいない。と、聞こえてきた会話から連想した。
そういえば、SNSで写真を見る、載せることで写真について色々と思うことがあった。TLに流れてくる写真はどれもバチッとした構図に美しい色彩でとても良い写真だ。ただ、良い写真を見ても綺麗だなとしか思わないし、自分も写真撮りたいという感情しかわかない。それが悪いわけでもなければ自分も同じだと思う。写真を撮る人は自分なりの考えを持って写真を撮っているのだろうけど、高速にかつ大量に流れるSNSではそんなことはおかまいなしのようだ。ベンヤミンの、「美しい写真」に包括されるような創造的写真がその連関から脱出するにはキャプションが必要だと言った。それは流行による摩耗から写真を救い出す行為だと言うが、ベンヤミンが想定しているのは政治的、ドキュメンタリーな写真についてだ。全ての写真がそうだと言わないが自分はこの意見にはかなり共感できた。(昨日からの心境の変化)今の時代だからこそ、ベンヤミンのキャプションや、中平卓馬の初期の思想が有効になるような予感がする。そういうわけで、写真を見返して、写真を撮った時に感じたこと、見返してて気づいたことを言語化することを心掛けてみる。まずは色々と試してみる。