本を読むときに、視線が文字の上を滑っていく感覚が増えている。言葉の、文字の表面をなぞるだけの読書。ベンヤミンの『写真小史』をもう一度はじめから読む。今度は描かれている思考の流れ、言葉の意味を確認しながら。
ベンヤミンは『写真小史』で、観相学的、政治的、科学的関心から解放された写真は「創造的」なものになると述べている。そして、「創造的写真」は”商品”としての価値(どれだけ売れるのか)が他の価値よりも先行される。ベンヤミンはそのような「創造的写真」には、見る人の連想メカニズムを停止させるキャプション(説明文)が必要だと述べている。
はじめ読んだ時にはその意図を掴めずにいた。キャプションは写真の見方をガイドするより、写真の見方を規定してしまう力の方が大きいように感じたからだ。そして、見方を規定された写真は見やすいが少し窮屈になるように思えてしまう。しかし、もう一度読むと、ベンヤミンの主張がなんとなくわかる。キャプションは「創造的写真」から資本主義的な匂いを脱臭するためには有効なのだろう。
そういえば、X(旧Twitter)に写真を投稿するようにした。やっぱり撮った写真は誰かに見てもらいたい。ブログよりSNSの方がレンジが広いのは否定できない。写真を投稿すると、やはり「いいね」や「リポスト」といったインプレッションがどうしても気になってしまう。インプレッションを気にしだすと、次には、どのような写真であればインプレッションが大きくなるのかを考えてしまう。いわゆるバズるにはどうしたらいいのか?と。自分がここ数年でSNSとの向き合い方を考えて切り離すようにした思考が再び立ち上がってくるのがわかる。危険な兆候だった。
ただ、ここでベンヤミンのキャプションが、SNSに溢れる膨大な写真の中で脱臭された写真になるのではないか?と考えてたところで、キャプションによって見方を規定ではなく、ガイドされた写真はその分かりやすさからインプレッションを稼ぐSNSのアルゴリズムに吸収されてしまう気がした。しかし、自身が撮った写真のキャプションを考える行為自体はやはりベンヤミンの言うとおり、その広告的な連想から切り離すには必要なのだろう。結局は自分はどういった写真を撮るのか?それらの写真について考える、言葉にする必要があるように思える。
SNSの運用は難しい。良い写真が溢れる中で自分が写真を投稿する意味はあるのだろうか?わからない。セルフブランディングなどと言い訳をしてみても問題は変わらないのだ。ただ、何かを挑発するような写真を撮ることが出来ればとの気持ちで撮った写真、良ければ「いいね」と「リポスト」して頂けると素直に私が喜びます。以上